『 し と し と と 』 よろずの雨/白金ペンギン 相変わらず雨が降っている。細かく煙るそれは、しとしと、しとしとと、 止む気配もない。辺りはすでに夕方のように暗く、歩く人影もなかった。 糸のように空から落ちてくる雨は、世界を遠く見せる。さあさあと降る音以外に 何も聞こえず、無音の、無色のひろがりだけが自分の周りにあるようだ。 「なに考えてる?」 不意に問いかけられ、緋村剣心は、横を歩く逞しい身体に視線を向けた。2人で ひとつ傘に入っているため、彼の肩は傘からはみ出して、濡れてしまっている。 「別に。ただこうしていると、ここにいるのは拙者と左之だけのような気がして……」 剣心は視線を前方に戻した。 「何というか……とても、気持ちがいい」 相楽左之助は、口を綻ばせて何か言おうとしたが、結局は 「ああ」と呟いたきりだった。 それからまた、2人は黙って足を運ぶ。泥が撥ね、足元はすっかり汚れて しまっているが、そんなことさえ心地良く感じられる。 濃密な空間。 ただ周囲に雨が降る。 ふと。 左之助が視線を泳がせた。 「なあ、あそこ……見てみろよ。ヘンだと思わねえ?」 小声で剣心にささやく。 剣心は、指し示す左之助の手を追って、左手上方に目を凝らした。 2人が歩いている道から土手を上がった所に、1人の女性が立っていた。 傘をさしているうえ雨に煙っていて、姿形はしかとは見えない。 ボウッと霞んでいる姿は、しかし、先程から川面を見つめているように じっと動かなかった。 この雨の中、あんな所で何をしているのか。 「……まさか」 「ああ」 左之助と剣心は目を見交わした。思い過ごしならいいが、万が一、 身投げということもあり得る。2人は足音を忍ばせ、同時に土手を上った。 女性に向かって急ぎ足になる。 かなり近づいた時に、左之助は一つ息をつき、わざと明るい声をかけた。 「よォ、何してんだい、そんなとこで」 女性の傘がクルリと回った。 振り向いた傘の影から、顔が現れる。 まだ若い女性だった。造り物めいた美貌はまるで人形のようで、どこか 凛とした気品を湛え、一種近寄りがたささえ感じさせた。 思わず立ち止まってしまった左之助の後ろで、剣心が 「……巴」 と呟いた。 左之助はハッとして後ろを振り向く。両目を見開いた剣心は、傘も放り出し、 ただじっとその女性を見つめていた。 左之助は、ゆっくり視線を前に戻す。 長い黒髪は結わずに後ろで一つに束ね、白の小袖に紫のショール、 傘の柄を肩にかけ、黒目がちの瞳が左之助を見ている。 その細い顔だちは、明らかに雪代縁によく似ていた。 −−−−これはうつつか、幻か。 そういえば女性の足元は、この雨だというのに濡れてもいない。 左之助の目の前で、女性はゆっくりと微笑んだ。軽く会釈をする。 そうすると、人形のようだった美貌に表情が宿り、若い女性がもつ特有の 華やぎが周囲を彩った。 女性の瞳は、そこに映る言葉は、剣心にというよりは、むしろ自分に 向けられたもののように、左之助には感じられた。 左之助は反射的に会釈を返し……前方に歩み出た剣心が、もう1度 「巴」と呟くのを聞いた。 それは、やさしい声。切ない囁き。 左之助の呼吸が、不意に苦しくなる。 その時、女性は再び微笑んで。 次の瞬間、かき消すようにいなくなっていた。 降り続く雨が、つい今まで女性がいた辺りに水たまりを作っている。 川の音が、水嵩を増したためか大きく響いて聞こえた。 「……」 左之助は1度うつむくと、剣心が放り出した傘を拾い上げた。 それを、呆然と立ったままの剣心に差しかける。 「……帰るか?」 左之助が言うと、剣心は案外素直に「ああ」と応え、左之助の横に立った。 そのまま川に背を向ける。 「巴サン……よ、もしかして、俺に挨拶してくれたのかなあ?」 左之助が言うと、剣心は顔を上げた。 「左之に? なんで?」 「なんでって……何となく、そう感じたんだよ。主人をよろしく……みてえな」 左之助は自分で照れて鼻をこすった。 「なんだそれは」 剣心は呆れたように笑う。 笑って、それからまた振り返った。女性がいた土手の辺りを。 左之助も同じように後方を見る。薄暗い中に、雨だけが降っていた。 ただ雑草の緑のみ目には映る。 左之助には何も見えなかったけれど。 剣心には、あるいは今も見えているのかもしれない。 聞こえているのかもしれない。 もうとうにいない女性の、凛としたその姿、声、微笑み。 傘がクルリと回って、切れ長の瞳がこちらを向いた時の、あの不思議と 懐かしい感覚。 やがて剣心はゆっくり向き直ると、左之助と共に土手を下り始めた。 雨は相変わらず降り続き、道はぬかるんで足元を危うくする。 左之助は言った。 「俺よ、何となく分かったぜ。お前があの人に惚れたわけ」 「……そうか?」 剣心は、笑みを浮かべて穏やかに返す。 「似てんだよ、きっと。お前と巴サン」 「……そうかなあ」 剣心はむしろ苦笑を浮かべた。 「そうだよ。俺が言ってんだから信じろ」 左之助は足を早めた。 「早く帰ろうぜ。暗くなってきた」 「ああ」 傘を左手に持ち替えた左之助は、空いた右手でそっと剣心の手を握った。 自分の肩は構わず、傘を斜めにして剣心の頭上に差しかける。 剣心は手を握り返し、左之助に歩調を合わせた。 しとしと、しとしとと、雨は降る。 −−−なァ、何考えてんだ? 左之助はもう1度聞きたくなったが、敢えてそうせず、 ただ、剣心を握る手に力を込めたのだった。 |
